三陸復興国立公園 横山不動尊縁起
当山鎮守大聖不動明王は、古くより「横山のお不動様」の名で知られ、千葉の成田不動尊、新潟の菅谷不動尊と並び日本三不動の一(ひとつ)と称され広く信仰を集めています。
横山不動尊の歴史の始まりは、77代後白河天皇の御代、保元(1156〜1158)の頃、百済国(現韓国)より本吉郡南三陸町戸倉の水戸辺浜に丈六(一丈六尺)の不動明王像(以下尊像と表記)が着岸し、当横山の中の森山中央に鎮座したのが最初と伝わっています。中の森山とは、現不動堂後方の山林を指し、当初、三條重信と称する供護の従士がその山頂に一宇を建立し尊像を安置し明王山金剛寺と称する真言の道場としましたが、いつしか衰退し、その跡地は現在、不動尊奥の院と呼ばれています。
永正元年(1504)当横山村館主男沢蔵人殿が開基となり禅刹として再興し、竹甫慶玉和尚を迎え曹洞宗白魚山大徳寺に改宗開山いたしました。
天正18年(1590)葛西左京太夫晴信殿が山麗に不動堂を移し、深く霊像を信仰しました。その後、江戸時代になり貞享元年(1684)仙台藩四代藩主伊達綱村公が、京の大仏師香甫に尊像を鑑定させたところ、香甫は「弘法大師御作なり」と讃えました。綱村公は香甫に尊像の修復を命じ、江戸の大修理が行われました。併せて翌年、高堂五間四面を御再営され入仏供養が営まれました。さらに仏供料として知行高弐貫文並びに宝物等の御寄附があり、以後、伊達家より代々御墨附を頂戴し、その名が広く知られるところとなりました。
大正15年(1926)3月、附近の民家より出火、折節風は烈しく、炎はたちまち不動堂に延焼し、惜しくも建物は全焼しましたが、幸にして尊像は運び出されて災禍を免れました。現在の堂宇は、昭和3年(1928)5月に再建されました。建築流儀は本林流宝塔造り、棟梁は気仙大工の名工花輪木久蔵、彫刻は石井寅正の作であります。
地域の民衆や遠近の信者に、篤く信仰され長く守り継がれてきた尊像は、仏像では最大の基準である丈六(一丈六尺)の巨像で、製作時期が平安時代にまでさかのぼる不動明王像の雄作であることが専門機関の調査で判明し、平成9年(1997)6月に国の重要文化財に指定されました。又、東日本大震災による破損と経年の劣化を修復するために平成24年(2012)春より2年間、京都の美術院国宝修理所にて尊像の平成の大修理が行われました。
尚、尊像の内部には高さ約10センチの金の胎内仏が秘仏として納められていて、十二年に一度、酉年の春祭にのみ御開帳しています。
保元の御代より令和の現代に至るまで八百数十年、法灯連綿として栄え、霊験あらたかなる庶民の守護仏として今も歴史を重ねています。
